第2章 彼女は商品

手術刀が腹を裂いた、その瞬間。杉浦杏奈はようやく知った――生きることが、死ぬより残酷な時があるのだと。

麻酔はない。刃が皮膚を割り、肉を断ち、血を引きずり出していく。

痛みに身体がびくんと跳ね上がり、手首の鎖がぐいっと食い込む。ぐしゃり、と。血と肉が潰れて、視界が赤に滲んだ。

どれほど時間が過ぎたのか。

意識が完全に摩耗する前に、子どもが取り出された。杏奈に一目も見せないまま、抱えられて連れ去られていく。

藤原智彦が手術台の脇へ来て、見下ろした。

腹は開きっぱなしで、切開の口から血がどくどく溢れ、手術台は真っ赤に染まっている。

藤原智彦が冷たく嗤う。

「男が足りねえんだろ」

「国境にクラブがある。特殊な客相手の店だ。そこへ送れ。十ヶ月、きっちり稼がせろ」

「国も肌の色も、趣味もいろいろだ。全部、味わわせてやれ」

「美雪は海外で、ひとりで十ヶ月も怯えてた。こいつも体験しろ」

杏奈の意識は薄れていくのに、痛みだけが眠らせてくれない。

それでも、藤原智彦の言葉は一つ残らず耳に刺さった。

「十ヶ月後、生きてたらその時に考えりゃいい」

一拍置き、淡々と続ける。

「子宮は摘出だ。どうせ要らねえ」

背を向けて二歩、歩き――ふと止まる。

「高橋先生。この女の家族が遺体提供にサインしてる。死んだら心臓も肝臓も脾臓も肺も腎臓も、使えるもんは全部提供しろ。こんな汚ねえ人間でも、社会の役に立てるなら光栄だろ」

「麻酔は打つな。いいな」

手術は続く。

麻酔のない刃は、胸の奥を抉り取るみたいに痛かった。

杏奈は痛みで気を失い、痛みで目を覚ます。何度それを繰り返したのかも分からない。

縫合が終わると、彼女は車へ引きずられ――国境の会員制クラブへ投げ込まれた。

一ヶ月目。身体は傷だらけで、毎日客を取らされた。

三度目の逃走で捕まり、見張りに地面へ押さえつけられて殴られる。

鼻梁は折れ、左目は腫れて開かない。指も二本、踏み潰された。

杏奈は喉を裂くように叫んだ。

「杉浦家が……絶対に許さない! 絶対に!」

次の瞬間、タブレットを顔の前に突きつけられる。

画面に映っていたのは杉浦家の別荘。水晶のシャンデリア、花、ケーキ。家族全員が揃っている。

杉浦美雪が真ん中に座り、淡い黄色のシルクドレスに身を包み、ダイヤのネックレスを光らせ、腕には赤ん坊。甘く、幸福そうに笑っていた。

杉浦秀明がプレゼント箱を渡し、杉浦啓介が子どもをあやし、杉浦陽向がフルーツジュースを差し出す。

母の杉浦三芳が美雪の肩を抱いて何か言い、皆が笑った。

いつも厳しい父――杉浦正弘ですら、穏やかな眼差しでその光景を見ている。

そこにあるのは、完全な幸福。

――杉浦杏奈のいない、幸福だった。

タブレットが乱暴に引き剥がされ、見張りが蹴りを入れる。

「家族が金出してなきゃ、とっくに臓器売ってんだよ! 見たなら這って働け、クソが!」

杏奈は泥水に顔を埋めたまま動けない。

下着一枚。全身にタバコの火傷、カミソリの傷、噛み千切られたような裂傷。

左腕は赤く腫れて膿み、痒いのに痛い。

髪は一房ごっそり抜かれ、血塗れの頭皮が剥き出しになっていた。

死んだほうが、まだ綺麗だ。

それなのに、さっきの画面の美雪は――過去のどんな時よりも美しかった。

その日を境に、客が倍に増えた。

これは杉浦家の「特別な配慮」だと杏奈は知る。杉浦正弘が電話で言ったのを耳にしたのだ。

「暇にするな。また戻って騒がれたら困る」

最初の男が入ってきた時、杏奈はマットレスにうつ伏せだった。傷は膿み、高熱で意識が霞んでいる。

髪を掴まれて引き起こされる。抵抗しないのではない。力がないのだ。

二人目、三人目――。

列を作って、次から次へ。休ませない。

タバコの火を腿の内側に押しつけられ、焦げた肉の匂いが血臭と混ざり、部屋に充満した。

歯を食いしばって声を出さないでいると、口をこじ開けられ、今度は舌に押しつけられる。

「ジッ」

喉の奥から、人間とは思えない声が漏れた。

静かすぎるのが気に入らない男は、背中にカミソリで絵を描いた。一本、また一本。皮膚がめくれ、血が腰へ流れ落ちる。

ようやく叫ぶと、男は興奮し、笑いながらさらに刻んだ。

別の男は馬乗りになり、首を絞める。

「叫べよ。もっとでけえ声で」

叫ばないと、さらに強く締める。親指が気管を押し潰し、視界が白くなる。

死ぬ寸前で手を離し、息を吸わせて――また絞める。

次の男が入ってきた時、杏奈の目は赤かった。殺意が渦を巻く。

口に押し込まれた瞬間、彼女は噛み切った。煮込みすぎたソーセージをぶつりと噛み千切るみたいに。

血が顔に跳ね、男が悲鳴を上げて股間を押さえ、後ずさったまま廊下へ転げ出る。

廊下が一気に騒然となった。

杏奈は血まみれの肉片を吐き捨てる。

口の中は血でいっぱい。笑うと、地獄から這い上がった悪鬼みたいだった。

だが、その笑みは長く続かなかった。

クラブの用心棒がなだれ込む。

三人が押さえつけ、一人が口をこじ開け、ペンチを突っ込む。

歯が一本ずつ抜かれた。

口の中に残るのは、血塗れの歯茎だけ。舌が触れるたび、生肉を舐めているみたいだった。

数時間の休息を得た。けれど翌日には、また男が入ってきた。

力のない杏奈は、されるがまま。

「歯がねえ? そっちのほうが気持ちいいだろ」

口を広げられ、勃起したそれが近づく。

杏奈は手を伸ばし、男が酔いしれた瞬間――眼窩に指を突っ込んだ。

関節を曲げ、眼球の裏の柔らかい組織を引っかけ、ぐいっと引き抜く。

眼球が飛び出した。

男は血まみれの眼窩を押さえて転げ回り、指の隙間から血が噴き出す。

杏奈は、もっと鮮やかに笑った。

その報復として、彼女の指は一本ずつ折られた。

徹底的に、二時間。

死ぬと思った。傷は腐っては塞がり、塞がっては腐る。それでも死ねない。

クラブで最下層の娼婦になった。100円で一回の屑。

殴られたあと唾を吐きかけられ、汚いと罵られた。

そんなある日、予定より早く連れ出された。

隅で身を縮めながら、杏奈の頭に荒唐無稽な期待が浮かぶ。

――杉浦家が、やっと私を思い出した?

――母が、こっそり迎えを?

車は揺れ、前方で男たちが喋っている。

「この女が杉浦家の養女か? 何者だよ」

「知らねえのか。堂本家の遺児だ。信託基金作ってる、あの堂本家」

「は? じゃあいくらの価値だ?」

「25で信託が動く。百億単位らしい。杉浦家はその金のために飼ってる。養って一年で1億入るってよ」

「クソ、藤原智彦が払った端金って何だったんだよ」

「こっちは連れてって、臓器は先にオークション。25になったら基金が入る。金が入ったら臓器取って送ればいい」

「遺体は?」

「焼けば終わりだ。誰が調べる」

杏奈の血が、一気に冷えた。

そういうことか。

杉浦家が命を繋いでいたのは情けじゃない。25歳。信託基金。

彼女は最初から人間じゃない。商品だ。杉浦家に預けられ、期限が来たら開封して金を抜き取るだけ。

そして今は、身体すら守れない。臓器は売られ、基金は奪われ、遺体は灰にされる。

全身を残すことすらできない――。

車は廃工場の前で止まった。

ドアが開き、手が伸びる。杏奈は隅で縮こまり、動かない。

苛立った男が身を乗り出した瞬間――

杏奈は握り締めていたガラス片を、男の首へ突き立てた。

血が噴き、男は喉を押さえて崩れ落ちる。喉から獣みたいな音が漏れた。

杏奈は車を飛び降り、振り返らずに走った。

背後で怒号が上がる。それでも振り向かない。全力で前へ。

砕石の道を抜け、荒れ草の野へ飛び込む。

遠くに車のライト。数人が車の傍に立っている。

杏奈はそこへ向かって走った。追いかける足音が迫る。

肺が破裂しそうだ。傷口が裂け、血が脚を伝って落ちる。

ライトの前へ辿り着き、よろめいて倒れ込む。

立っていた男たちが反射的に後ずさった。誰かが叫ぶ。

「……幽霊かよ!」

今の彼女は確かに、人間の姿ではない。

腫れた顔。歪んだ鼻。禿げ落ちた髪。剥き出しの頭皮。

血と泥に塗れた身体。膿む傷。腐った匂い。

幽霊より化け物だった。

杏奈は顔を上げ、車の傍に立つ背の高い男を見た。

黒いコートの襟元が少し開き、冷たい白い首筋が覗く。彫りの深い、鋭い顔立ち。薄い唇。感情のない表情。

鞘に収めた刃――静かだが、危険。

灰原仁司。

杉浦家が最も恐れる、商業上の宿敵。手段が苛烈で、容赦を知らないと噂される男。

彼は火の点いていない煙草を指先に挟み、こちらを見下ろしていた。

周りの連中はさらに後退し、低く悪態をつく。

「……なんだ、あれ」

杏奈はふらつきながら彼の前まで行き、膝をついた。

「灰原さん」

声は掠れて、人のものとは思えない。

「私は杉浦杏奈です。雲頂の宴で、あなたが一度、私の酒を代わりに受けてくれた」

顔を上げ、彼を見据える。

「今度は……借りをもう一つ増やさせてください」

杏奈は手を伸ばし、彼の腰の銃を抜き取った。

そして銃口を、自分のこめかみに当てる。

「来世があるなら……必ず、この一杯をお返しします」

藤原智彦。杉浦家。杉浦美雪。

――神に誓う。もう一度チャンスをくれるなら、こいつら全員を地獄へ落としてやる。

杏奈は目を閉じた。

迷いは一切ない。

引き金を引いた。

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